2007年2月15日木曜日

 

小論文

昨日・・・いや、「今朝」のほうが適当・・・遅くまで、今学期の総合日本語の最後課題の小論文っていう物を書いてた。どう遅いかっていうと、四時半まで。(そしてブリーチを一エピソード見てようやく五時に寝た)。とにかく、今度は何も述べたいことはないけど、自分の誇りのために書いた小論文を一応切り取ってここに貼り付けた。相当の心血を注いで書いたんじゃよ!

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生物工学の恐ろしい未来

D ティオ シャオ ティ

 生物工学。七十年代まで、この科学の分野はなかったと思える。短い三十年の間で、この科学の新来者が著しく進歩して、次々と突破なしたのは人々に目を見張らせるのである。従来不可能とされていたことは、生物工学のおかげで、もはや想像ばかりのことではない。今や、遺伝因子組み換えで全く新しい生物種を作り出すこともできるほど、生物工学はもう予想しなかった高みに届いた。

 しかし、この急速に進歩した技術は本当に人間の夢の実現を与えることであるか。恐らく、そうではなかろう。生物工学者希望者として、相当の研究をしていたが、その結果、人間の持つ技術とそれに対する心構えの発展は並行に進んできたのではないことがわかった。確かに技術は高いことは高い。その上、ますます高まっていくのであろう。けれども、今日の人間を一つの文明として、精神的や、道徳的な成長の上から見れば、このような技術が与える力にはまだ早いと思える。火薬や原子力の発見の際と同じく、生物工学が乱用される恐れありのは絶対に無視してはいけない。実際に、生物工学が今のように進歩し続けた末に、持て余した力を入手した人間は自分を滅ぼし、文明を崩すのさえ考えうる。

 可能になったことが生物工学の進展に伴って、できつつある。クローニングで、交配、受精無しで生物を生ませることができる。一方、最近開発した遺伝因子組み換えという技術は新生物類を生み出すことを可能にした。その二つの技術を使えば、大量に素質の管制されている生物が作れると言われている。それから甚だ強くて殺傷力の高い生物兵器も作り出せようということはわかる。簡単に言えば、もし遺伝因子組み換えで、感染力の高く、人体に非常に危険な病原菌や、攻撃的で極めて強くて速い怪物が作り出されたとしたら、それを迅速に大量生産して、他の国や人種を攻撃することはできる。

 しかも、かつても、現世でも、人間の殺しあったり、被害を及ぼしあったりする傾向がよく見られる。歴史を通じて、繰り返して戦争が絶え間なく起こってきたのはその証拠である。東洋にしろ西洋にしろ、世界の国々はそれぞれの利己的な目標のため、無数の命を犠牲にしてきた。火薬が発明されや否や、銃に入れられて、弾を発射する役目に立ってしまった。そして原爆は第二世界大戦争における広島と長崎の破壊を永久に日本の民の記憶に想像を絶する恐怖を深く刻んだ。明らかに、人間は有効な兵器を入手したら、それが使われずに済むのはどうやらありえない。その上、生物兵器で攻撃された国も間違いなく、同様に生物兵器を用いて反撃するので、結局は状況が更にひどくなる。一言で言えば、万が一生物兵器が戦場に登場したとすれば、きっと想像もつかぬ死傷になるに違いない。

 前節は人間が意識的に起こすことを推測したが、意外のことにしても、生物工学で造られた物はそれほど危険ではないとは限らない。近年では所謂「グリーン・グー」の作り出しの心配が漸次になってきた。「グリーン・グー」と言うのはあらゆる有機物質を分解し、吸収して新たな仲間同士を作って、事実上にその有機物質を全体的に自分の質量の一部にする微生物のことである。こうした微生物は急速に繁殖そして蔓延できるので、短時間に世界の隅々に広がって、全ての生物を食べてしまって、地球を覆うようになる。かりにこんな微生物が作り出されて、つい実験室から逃れたとしたら、世界の一切の生き物はそれで終わりに向かう。実は、そこまで想像しなくてもいい。競争力の強い生物工学で造られた物が一旦自然界に逃げたら、自然に生きている生物に生きる権利を挑、自然生態系のバランスを揺り動かす。このような場合には、その競争している生物同士のみならず、それに暮らしがかかわっている生物にまで影響は遠く及ぶのである。そして、人間には例外ではないのは言うまでもない。

 当然なことに、世界各国は生物工学の潜在的な危険を問題視している。規制対策をとるにはとるが、今施行されている対策はどれだけの効果をあげられるのは疑問である。世界生物工学の最先端にあるアメリカにしても、生物工学の研究の監督とその結果の評価といった仕事は五つもの政府機構に分かれて行われていて、研究や製品に関する規定が統一していない。そしてそれが政府に確認された研究への管制に過ぎない。ひそかに生物兵器を開発することには全然作用を及ぼさない。いまだに、生物工学の情報は制限無くインターネットで容易に手に入れられる。それに対して情報の制限や研究の素材の管理も必要であろう。

 今更、人間は生物工学の車に乗って、自滅の道を走り始めたといっても過言ではなかろう。しかし、人間である以上、夢は見る、暮らしは高めるものである。まだ現れていない危険を恐れ、向上の追求を止めるのは運命を全うする術ではない。忘れてはいけないのは、生物工学は大いに我々の生活を変える力を持つからこそ、上に述べた危険があるのである。すなわちある可能な危険の反面には可能な利得もある。生活の改善のため、末頼もしく輝く生物工学の未来は確かに追いかけるべきである。だからといって、進歩を遂げながら、絶えず自分を戒めつつ、気をつけねばならぬ。強硬な規制対策を整え、世界の平和と安全を保障すること各国の統治者の責任である。一方、後世を、これから開発される技術の力を悪用しないように教えるのは人間同士の責任となる。良かれ悪しかれ、我々は生物工学文明に入っているからである。


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大したものじゃない?でも卒業小論文集に出るのはこれとちょっと違う。先生に書き直していただくから。何しろ、これが私が本気でやればできるものの象徴だろう。

なぜここにこんなことを書いたのか。自分にもまったく分からん。多分国の友達はいつまでもこのような日本語文章が分かるまい。そして日本の友達に見せるつもりもない。とにかく、俺の人生の旅の記録にしよう。これは初めて本気で宿題をやったのだよ!覚えるべき!

2007年2月12日月曜日

 

さまよった思案

なぜここにいるの。明日の発表の準備はまだ完成してないのに。よく、友達に「お暇ですね」と、皮肉に言われてる。実は、もう今のような生活に飽きた。日々を過ごして、なにも意義のあることをしてない。勉強するにはしてるって言っても、毎日してるどころか、全然勉強しない日は多いほうだって言えよう。

今まで遂げた達成はどう得たのか。自分のほんの少しの才能を頼ってきたじゃないか。 そうして続けていっちゃダメって分かってる。だけど、どうやら悪循環に入っちゃった。毎日時間と精神力を無駄にして、遅く寝て、次の日に疲れてるのは普通になった。

今も時間を無駄にしてるじゃないか。って、自分に聞いてる。今更、こんなくだらない考えはやめて、すべきことを終わらせたほうがいいだろう。例えば、その嫌いな発表の準備。

ニックネームには「明日に向かって戦いを続ける」って書いてあるところで、その戦いはいつハジマルのか。もう随分負け側に立っていた。自分に負けてきたという。

何だか、惜しいものを失った気がする。何だろうか。動機か。囲んでくれてた友達の友情か。一切の困難を越える潜在的な能力か。分からない。でも、むなしく感じてる。


いったい、自分が何を述べようとしてるか?自分にも分からんくせに、インターネットに公開するものか。さすが私。時間は持て余すものだ、私にとって。

Jay Chouの歌を聴いている。久しぶりに古い歌を聴いたらこうなるのか。本当に情けない、この私。

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